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四次元の花嫁・四次元の修羅 [対称性人類学]

 こういう迷宮の内部を歩いている感覚を想像してみますと、以前この講義の中で、 なにかこれとよく似た体験をしたことがあるのに気づきませんか。そうです。「クラインの壷」と呼ばれる高次元の多様体の表面を歩いていることを想像したときの感覚と、とてもよく似ているのですね。私たちホモサピエンスの知性には、ふつう三次元より高い次元を思い描く能力がありません。そのために、二次元しか認識できない不自由な動物のようにして、この高次元体の表面を歩いていかなければならないのですが、裏も表もない表面の上を中心の在処をめざして進んでいくと、ついに中心にはたどり着くことがないまま、表面全体をくまなく歩き続けることになります(『対称性人類学』p.131-132)。

 高次元とか四次元ということは中沢先生の話によく出てきますし、『対称性人類学』の中でも頻繁に登場します。しかし索引を見るかぎり、カイエ・ソバージュ・シリーズのほかの巻には、このことは出てきていないようですので、シリーズを順番に読んで来た人の中には、なんだかよくわからない、と思う人もいるのではないでしょうか。
 ここで言われているように、「三次元より高い次元を思い描く能力がない」私たち人間にとって、四次元とかそれ以上の次元を持った世界を理解するのは難しいことだと思います。しかし、三次元より低い次元の世界を想像することはできます。そこで、三次元の世界から二次元の世界を見るとどのように見えるか、ということを通して、四次元の世界から三次元の世界を見たときのことを、なんとなく想像することができます。

 僕は、「宗教とは何か」という問いかけに対する答えを一つのイメージで捉えようとすると、よく「四次元」という言葉を思い浮かべるのです。この言葉がはらんでいる深い内容に、とても興味があります。(中略)
 例えば、こんな比喩を使ってみましょう。この世界をスープのような世界だと考えてみます。僕たちは「スープランド」に生きています。人間はスープランドの生き物なのです。しかもスープランドの生き物は、スープの表面に浮かんだ油の層にしか生きられない、つまり二次元の世界しか知らないのです。ところが、そのスープランドに突然スプーンが差し込まれたと想像してください。つまり、三次元の生き物が、スープにスプーンを突っ込んでスープを飲もうとしているのです。
 この事態を、二次元のスープランドの生き物である人間は、どう体験するでしょう。突然何かわからないものが自分たちの世界に飛び込んでくるのを見るでしょう。最初は点がどこからともなく出現し、それはしだいに大きな断面に広がっていきます。そして時間とともに断面は小さくなっていき、最後に点がその世界からすっと消えていきます。そしてスプーンが抜けた後に、大地震が起こり、自分たちの世界の一定量がどこへともなく、消失してしまっていることに気づくでしょう。 「いったい何が起こったんだろう」と、スープランドの住民は深い衝撃ののちに、考え込んでしまうのではないでしょうか。
 これとよく似たことが、たぶん宗教と呼ばれる現象の中で起こるのだと思います。宗教が語ろうとしていることは、こういうことなのだと思います。キリスト教でも仏教でもイスラム教でもどんな宗教であっても、人間が生きているこの世界よりも高次元な領域があり、それは突然この世界の中に入ってくることがあり、人はそれを体験することがあるのだということを語ろうとしています。
 それは、人間がこの世界だけに閉ざされた生き物ではないと語ろうとしているのです(『宗教入門』マドラ出版 1993年 p.83-85)。

 この「スープランド」というのは、ルーマニア人で宗教学者だったイオン・クリアーノという人の考えたもののようです(「ヨーロッパ思想の東北」『哲学の東北』p.224-228)。因みに、これとよくにた話に、エドウィン・アボット・アボットという人の書いた『フラットランド』(日本語訳には『二次元の世界』と『多次元・平面国』の二つがあるようです)という本があって、中沢先生の書いたものの中には、これに触れているものもあります(「四次元の花嫁」『東方的』p.60)。
 前に書いたパスカルの「火の夜」の体験も、このような高次元体験の一つなのだと思います。このように、私たちが感じている三次元の世界は、もっと高い次元の断面の一つに過ぎない、と考えると、いろいろなものの捉え方が変わってくることになるはずです。

 世界は断面だという発想は四次元思想の発想です。現実に僕たちが生きている世界は、四次元の現実が三次元空間に切り取られた断面としてここに現れている。だから生命現象も、実は四次元にある生でも死でもない第三の力が、有機体の生と死という形をとる三次元世界に現れているのにほかならない(「四次元の修羅」『哲学の東北』p.39)。

 有る/無いとか、生きている/死んでいるということは、三次元の世界では正反対の状態です。しかし、それを四次元の世界からみたらどう見えるでしょうか。ここで、三次元から二次元を見る、というさっきのたとえを使ってみましょう。
 二次元の世界の生き物は、縦と横は認識できますが、高さを認識することはできません。だから、自分たちと違う高さにものがあっても、それは無いものとされてしまいます。スプーンがスープランドの中に突っ込まれているとき、スープランドの人々はスプーンの存在を感じることができますが、それがスープから出て行ってしまうと、彼らにとっては「なくなってしまった」ように感じられるのです。しかし、三次元の世界から見れば、高さが違うだけで、スプーンが存在している、ということに変わりはありません。
 これと同じで、私たち三次元の世界の生き物は、今この瞬間にあるものしか認識できませんから、未来や過去のものは無いものとしています。しかし、これを四次元の世界から見るとどうなるでしょうか。未来や過去にあるものも、いま現在あるものと、あるということに変わりはないのではないでしょうか。そうすると、生きているとか、死んでいるということについても、今までと違った捉え方になるのではないかと思います。
 最初に、人間は「ふつう三次元より高い次元を思い描く能力がない」とありました。では、宗教体験のような特別な場合にしか高次元の存在を感じることはできないのか、というと、そうでもないようなのです。

中沢 音楽も、一言で言うと最高の四次元芸術でしょう。
高橋 普通は時間の芸術ということですますんですが、いま中沢さんにいわれてハッとしました。
中沢 つまりどこにも存在しないでしょう。一個一個の音符だけでは何の意味ももたない。全体が現れてこないと意味がない。だけどその全体は常に存在していないですね。音楽を聞いている間だけで、その音楽の全体は聞き終わった瞬間に出てくるかというと、それもないのです。消えていくでしょう。これが四次元的なものの特徴です(「同上」『同上』p.58)。

 このように、音楽という身近なものを通して、私たちは日常的に高次元に触れている、と言うこともできるのだと思います。


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